コバケンが面白くないというわけではない

 

  • 表現と「不謹慎」

 「不謹慎だ」という批判。最近は、それが一種の正義として跋扈しているのであるが、ある人の表現に対して「不謹慎だから」という理由1点で制約することは、果たして可能なのだろうか?

 

 私自身、無意識に傷つけてきた者への自覚という最近の風潮の変化は、喜ばしいものであるしそれが真にあるべき社会であるとは思っている。ただ、どんなに人を傷つける、貶める表現であっても、それが表現である限りは「やめろ」とは言い得ないのではないか。

 というのも、私も生きるためのよすがとして様々な他者の表現に縋る者の一人として、全く攻撃的でない表現というのはありえない、というか攻撃性を持っていなければ表現たりえないと考えるためである。少なくとも私は、表現に心が動かされるのは、表現によって心臓を刺された瞬間であるし、それは表現活動を重んじる人なら共感できる感覚だろう。表現によってぶん殴られ、これまでの自分の実体が変形させられるに伴う痛み(トラウマ)こそが、表現の持つ本質的な力なのだと私は理解している。だから、表現というのはそもそも「なぜか許容されている暴力」なのであるし、その暴力性が私は好きなのだ(論理を扱うのが好きなのもそれと同じなのかもしれない。私は論理を「合法的に・正当に人を殴れる手段」と考えている節がある)。

 この点が、「不謹慎だ」という批判に対して抱いている1つ目の疑問である。つまり、この批判のいうところは「その表現は不謹慎だ→やめろ・撤回しろ」というものなのであろうが、「不謹慎」が「傷つく人がいる」という内容を指す限り、ここの「→」はそもそも存在し得ない、論理として成り立っていないのに、なぜこうも大手を振ってこの言説が通っているのか、よくわからない。

 

 2点目として、「不謹慎」な表現が仮に取りやめるべきものであるとして、それはなぜなのだろうか、なぜみな不謹慎に厳しいのだろうか、という点も、考えてみるとわからなくなってくる。

 確かに、軽々しく人を傷つけるな、という次元では、不謹慎だからやめろというのは「人を殺すな」と同じレベルで妥当するものなのだろう(後者についてなぜそういえるのかという議論は置いておいて)。ただ、やめろという人たちの心境は、そういうものではないようにも思える。つまり、単純に「表現として不快」という生理的嫌悪が先立っていて、やめさせるための正当化として「不謹慎だ(誰かを傷つけるな)」、ということを言っているのではなかろうか。

 そうすると、この批判の本質は、「誰かが傷つく」というよりも、「表現として受け入れない」という意思の表明でしかない。要は、「面白くないからやめろ」と同義ではないのか、というのが、私の「不謹慎」批判の解釈である。

 

 いわゆる「不謹慎」な表現は、正直に言うと私は結構好きではある。最悪であることは承知の上で、でも最悪過ぎて笑ってしまうということは、別におかしなことではないだろう。

 ここに、私は「不謹慎な表現」の在り方の難しさを見る。結局、不謹慎な表現が面白いのは、本来笑えないような最悪のなかで、その最悪を上回る面白さがあるとき、笑いをこらえようとしてもこらえきれないようなとき、緊張に対する緩和として、面白さが効果的に強調される、というところに本質があるのだろう。不謹慎な表現というのは、それが面白ければめちゃくちゃ面白くなるが、面白くない、単純に不謹慎なだけだとただただ人を無意味に傷つけるだけの不快を生むに過ぎない、という諸刃の剣なのであり、これを表現として「面白い」にもっていくのには極めて精密なバランス感覚が必要、ということなのだと思う。

 だから、「不謹慎だ」とある表現について批判の矢面に立たされている人は、不謹慎に対する責任というよりも、「お前全然おもんないな」という責任を追及されているというように変換できる。不謹慎であっても、面白かったら無罪。バランス感覚のない奴が不謹慎ネタに手を出すな。そういうことなら、私も昨今の風潮を理解できるのである(なのでそういうことであってくれと思っている)。

 

 

 これらを踏まえると、「バランス感覚のない奴は『誰も傷つけない』表現だけをやれ」と批判は言っていることになるが、傷つけない表現なんか存在し得ない以上、「おもんないから死ね」と同義ということになる。なんとも世知辛いが、その気持ちには非常に共感できてしまうところに、自分の不寛容さがしみじみ感じられるのである。

友達なんていらない死ね

 私は誰かとどうなりたいんだ


 人とわかりあえると思ってないしわかられたくもない


 そのくせして身勝手に人をわかりたがる


 それは人を消費してるだけではないのか


 ぐうの音も出ない



 たぶん無意識に他人を見下してるのだろう 私のことなんかわかりっこないだろうと


 かっこよくいえばシュミレーテッドリアリティ 端的に言えば中二病 

 ネバーランドが終わらない


 そんなだからどこまで行ってもひとり



 結局自分を評価されるのが怖いだけ


 人は評価してるくせにね 傲慢だね


 ひとりでいるのをかっこいいと思ってる? それは自分が傷つきたくないだけでしょ


 ただの後付け 正当化したいだけ

 誰にも見てもらえない自分を



 君が優しさだと思ってるそれは

 人をいなしてるだけ

 

 わかってる? 見ようとすらしてないんだよ

 君の瞳にはずっと君しか映ってないの



 人と関わる資格すらない


 自分が可愛いだけの


  偽善者


 君にできることは


 君自身を赦さないことだけだよ


 一生かけて苦しめよ


 

FAQ

 老害という生き物が嫌いだ。

 

 老害を定義してみれば、年長者であることを笠に着て傍若無人に、あるいは周囲への感度を失った状態をよしとして居座り続ける人物であるということになるだろう。少なくとも私が嫌う老害とはこのような共通項がある。

 

 では、なぜ嫌いか。老害のどこが生理的に受け入れがたいのか。

 

 まず、年長者であるということを「無条件で敬われるべき」という資格であるかのようにふるまっている点。これが第一であり、かつ老害の最悪さの中核を成している。

 そもそも、「年上を敬え」という道徳的発想は、より長く生きているものは経験がその分豊富であり、それに裏打ちされた知識があるから、意見として妥当であることが多い(あくまで多いというだけ)、という集団生活上の教訓に近いところから生じたのであろう。

 しかし、個人の経験も多様化した現代では、長く生きているからといって有用な経験をより多く経ているとは限らなくなったし、若いからといって知識不足であると必ずしもいえない状態が生じている。そうすると、「類型的に年長者は経験豊富だからその意見を聞くべきだ」という教訓に、かつてほどの信ぴょう性はなくなる。かつても年長者を敬うべきなのは「類型的に」経験豊富だから、という点に求められてはいたが、現在では年長者のその「類型性」すら失われつつあるのだ。世間知らずな老人だっているし、その生き方は決して誤りではない。

 

 もはや「年上だから敬え」との迷信を強調することは、思考停止、楽に尊敬を得ようとしているにすぎない。年を取るだけならば誰だってできるからだ。生きてさえいれば、いずれ自分も周囲から無条件で承認、尊敬してもらえる。そう甘く考えて、願って、期待している者のたわごとでしかない。あとにも述べるが、そんな簡単に承認してもらえると思うな、という怒りにも近い感情が、老害のメンタリティへの嫌さにつながっているように思う。

 

 

 なお、「年上を敬え」という風潮には疑念があるが、かといって敬意を払わなくていいといっているわけではない。というか、敬意を払わなくていい人なんてそもそもいない。そこの意識のずれも、私が老害的発想を嫌う一因だ。

 社会的生活を送るうえで、周囲の人間を尊重することは、基本的であるがほぼ唯一の絶対的ルールであるといっていいだろう。そしてそれは敬語などといった道具ではなく、態度で示されるべきものである。相手への敬愛を言葉のレトリックに頼らずに表現することこそ「敬意」なのであって、敬語を使うか使わないかをごたごたいうのもばかばかしいと思っているが、その話は今回とは文脈がずれるので割愛する。とにかく、相手に敬意をもって接すること以上に人間関係で重要なことはないが、なぜか老害どもは年長者へのそれはワンランク高いものであるべきだと考えているようなのである。

 

 先にも述べたように、年長者の社会全体への類型的有用性という価値が崩れ去った以上、「年長者であること」というのは一個性でしかない。生まれつき天パだとか頭がいいとか筋肉質だとか、それと同列の特徴でしかない。相手への敬意は「人間であること」それ自体に対する敬意に他ならないのであるから、そんな一個性を特筆して尊敬するかどうかの判断基準にせよということ自体、時代遅れ以外の何物でもない。人間をカテゴライズして対応をその類型に沿って当てはめれば、それは確かに楽だろうが、その脳死の対応の方がよっぽど相手への尊敬を欠くように思う。人をカテゴライズしていい時代はもう終わったのだ。

 

 

 結論として、安易に承認を周囲から搾取しようとする、老害老害たらしめているそのメンタリティが心底気に食わないのである。

 承認欲求は人間の一番汚い部分であり、それと同時にもっとも切実な部分であると思うし、それを掴もうと何とかしてあがく姿こそが人間の美しさなのだと考えている。私も承認を得たいし、というか承認に向かって手を伸ばす自分であり続けたいから、常に思考や価値観を変えようと努めている。それは現在の自分を殺す行為に他ならないから、痛みを伴うが、その痛みすら人間賛歌としてとらえ(ようとし)ている。

 これに対して、年長者は敬われるべきという発想は、そのようなアップデートを怠ってもなお許される存在として自分をとらえることにつながるが、それはただ楽をして、自分ではなく承認する側の周囲に「承認せよ」と刃を突き付けて脅しているだけであって、その傲慢さによって承認せざるを得ない側が泣かされている、言ってみれば先に述べた「痛み」を他人に転嫁する態度なのである。苦労している自分からすれば「楽をするな」という一種のルサンチマンなのかも知れないが、敬意を求める者が最も他者への敬意を欠いているという自己矛盾を抱えてもなお、その罪に気づかずにのうのうと他人を搾取している、そのような存在への不快感は普遍的なものではないのだろうか。

 

 老いることは悪ではない。老いた先で、変わり続けなくてもいいとふと思ってしまった先で、思考停止を選ぶことこそが悪なのである。

漫画脳

 人間、誰しもカリスマ性に弱い。

 誰かを象徴として押し上げて、崇拝、嫉妬、羨望、様々な感情を持ちながら、最終的には圧倒されて否応がなく付き従わされてしまう。私も、そのようなカリスマに憧れる有象無象の一人だ。

 そのような力がカリスマと呼ばれる人に存在するのは、ある意味当然である。「追従させる力を持つ者」をカリスマと呼ぶからだ。

 では、なぜ私のような凡人どもはカリスマに引き寄せられてしまうのか。そこにいう「力」とはなんなのか。

 

 思いついた仮説がある。カリスマたる者にカリスマたらしめる本質があるのではなく、もしかすると、そこに「本質」があると凡人が願っているだけなのではないか。

 

 私も凡人らしく英雄譚的な話が好きなので、本棚を見れば一人のカリスマがすべてめちゃくちゃにするというような漫画ばかり並んでいる。そんな中、そこに描かれるカリスマの共通点が、「私たち(他の登場人物・読者)にとって、その人の行動原理がまるでわからない」ということなのである。わからない、だがそれは自分が凡人だからだ、との発想のもと、わからないという根源的恐怖から逃れるため、脱魔術化以前ならばわからないことをオカルトというブラックボックスに封じ込めて理解しようとしていた。だが、脱魔術化以後の現代でもやり方はそう大差ないだろう。わからないことはブラックボックスに封じ込めて、「そういうものなのだ」と丸呑みしようとする。そうすると、魔術のなくなった今、わからないことを押し込めるブラックボックスの役割を果たしているのが、「カリスマ」という器なのではないか。

 

 いまカリスマをわからないことを閉じ込めた箱にすぎないと比喩したが、それは結局、「カリスマ」と呼ばれるものの内実がないまま、飲み込もうとする人間が見たいものを見たいように「そこに入っている」と思い込んでいるだけ、ということを意味する。自然的な現象に天罰などといった意味はないように、「カリスマ」と呼ばれる者の一挙手一投足には、本当はそのようにあがめられるだけの意味などなく、空洞に集団幻想を見ているだけなのだ。

 

 そうすると、カリスマが「追従させることのできる力を有する者」と定義されるのであれば、ここにいう「力」というのは、できるだけ多くの人に幻想を抱かせ得る素質であり、それはつまるところ「0」=空っぽ、無意味であることなのではないか。

 まず、わけのわからないものを衆人に呈示する。そこには実際上意味はないが、「わからないが、そこには深遠な意味があるのだろう」と凡人は勝手に深読みする。そして、「私には到底たどり着けない地点にこの人は到達しているのだ」とさらに勝手に崇拝しだす。それが、カリスマと呼ばれる奇術の正体なのではないだろうか。これが私の仮説である。カリスマ、恐るるに足らず、といったところか。

 

 このような思想が主題となっているのが、私の生涯のバイブル、新井英樹による『ザワールドイズマイン』である。一人のカリスマの言動に、みな神仏へのそれに近い畏敬を抱き、また人生を狂わせていくのであるが、最後の最後でそれらすべての言動に意味などなかったことが発覚する。初めて読んだとき、なんてひどいシナリオだ、と非常に驚いたことを覚えている。ひどいというのは、話としてつまらないという意味ではなく、なぜ幻想を見続けさせてくれなかったのか、救いがなさすぎる、という作者の冷酷さへの嘆きである。

 新井英樹は、ほとんどの作品で一人のカリスマにフォーカスを当てた話を書くが、結末としてもどれしもが、その化けの皮をはがされ、「こいつもお前と同じ凡人の範疇でしかない」という現実を突きつけて終わる、というものばかりだ。凡人の夢や希望を打ち砕くことに心血を注いだ作風としか思えない。偶像を引きずり下ろす、その作風が好きで私は新井英樹に「カリスマ」を見出してしまっているのは、なんとも皮肉な話ではあるが。

 

 こう考えていると、やはりすべての元凶は、意味を見出さなければ気が済まない、という理性への奴隷根性ではないのかという気さえしてくる。打倒・合理至上主義を掲げた「カリスマ」になってみようか。