TSUNAMI

 いつからか、人の目を見て話すということが極端に苦手になっていた。

 

 記憶をさかのぼると、小学校のときは全くそんなことはなく、中学高校に上がってから急にできなくなったように思う。

 

 理由はかなりはっきりしている。自分の容姿に対するコンプレックスだ。

 中高のうちは、周囲では外見至上主義的な考えが席巻していた。誰がかわいい、かっこいい、あいつはブスだ、そんな声は割とあからさまに聞こえてきた(ような気がする)。

 自我の揺らぎの真っただ中にある思春期にそのような環境にいれば、自分の容姿を気にし始めるのも当然だ。確固たる自分が未形成である以上、自分というものをどうしても外部から掴もうとしてしまうからだ。しかも、自分は見てくれが悪いと評価されていることを、周囲の扱いから何となく察してしまった。

 そこから、自分が人に見られていることへの意識と、自分の外見を評価されている、ということへの恐怖心、屈辱感がパブロフの犬のごとくセットになってしまい、目を見るのが怖くなってしまったように思う。

 

 ただ、今ではそれほど外見への執着がなくなってきているので、あまり外見をジャッジされることへの恐怖心はない。むしろ、現在でもその症状が続いているのは、自分の内面のジャッジへの恐怖に根源がある。

 

 私は、自分でいうのもなんだが、正解のふりをするのがうまい。小手先でずっと生きてきた。親の前だろうと友達の前だろうと、ずっと喜劇の仮面をつけていた。よくある防衛手段だろう。もっとも、このパントマイムをずっと続けるとどうなるかというと、他人に見せている「私」の空虚さに気づかれないか、常に不安が付きまとうことになる。

 いつか、お前はしょうもない奴だな、と評価されるのが、怖くて仕方なくなる。こんなことならいっそしょうもない自分をさらしてしまえば楽になれるのだろうが、長い間つけていた仮面は接着されてもう取れないし、私は私がしょうもない存在であることを絶対に認めたくない。私は「自分がこの世で一番面白い」と思うことにしかアイデンティティがないので、それを否定されてしまうと、とち狂うか死ぬかしか選択肢がないからだ。

 そうなると、生きるためには自分を見抜かれないようにしなければならない。嘘をつきとおさなければならない。他者の目というのは、「見抜く」「見破る」という言葉の通り、化けの皮を剥がしてくるまさに「敵」であるから、私は生涯これと闘わなければならないのである。

 

 自意識が巨大すぎる人間は、ずっと他人の目を恐れて生きていかなければならない。かといって、誰とも関わらないのも嫌。「僕の部屋は僕を守るけど、僕を一人ぼっちにもするよね」その通り。他人の目を恐れながらも、痛みを感じながらも、誰かと関わらなければ生きていけない。

 あるいは、他人の評価なんか気にせず、自分が自分を信じてさえいればいいじゃないかとかのたまう輩もいるが、そんなことは本物にしかできない。どこまでも偽物で、凡人だからこんな悩みを抱えているのに。こんな悩みを抱えること自体、もうすでに「解脱」が不可能であることの証明に他ならないのだ。

 

 まあ、人からの評価が怖いなんていうのはみんなそうなんだろうとは思うが(そうであってほしい)、絶対の存在になれない私にとって少しでも楽になるには、歯を食いしばりながら他人の目をちゃんと見つめて、何食わぬ顔で嘘をつきとおせるような胆力をつけるしかない。自意識が気持ち悪すぎる点を除けば、それでしのげるだろう。ざまあみろ!

 

 逆に言えば、評価軸の存在しない関係の下では、目を見て話すことに全く苦痛を感じない。いまのところ恋人しかその関係にないが。どういう人生だったのか、それだけでばれてしまうところはある。ざまあみろ!