漫画脳

 人間、誰しもカリスマ性に弱い。

 誰かを象徴として押し上げて、崇拝、嫉妬、羨望、様々な感情を持ちながら、最終的には圧倒されて否応がなく付き従わされてしまう。私も、そのようなカリスマに憧れる有象無象の一人だ。

 そのような力がカリスマと呼ばれる人に存在するのは、ある意味当然である。「追従させる力を持つ者」をカリスマと呼ぶからだ。

 では、なぜ私のような凡人どもはカリスマに引き寄せられてしまうのか。そこにいう「力」とはなんなのか。

 

 思いついた仮説がある。カリスマたる者にカリスマたらしめる本質があるのではなく、もしかすると、そこに「本質」があると凡人が願っているだけなのではないか。

 

 私も凡人らしく英雄譚的な話が好きなので、本棚を見れば一人のカリスマがすべてめちゃくちゃにするというような漫画ばかり並んでいる。そんな中、そこに描かれるカリスマの共通点が、「私たち(他の登場人物・読者)にとって、その人の行動原理がまるでわからない」ということなのである。わからない、だがそれは自分が凡人だからだ、との発想のもと、わからないという根源的恐怖から逃れるため、脱魔術化以前ならばわからないことをオカルトというブラックボックスに封じ込めて理解しようとしていた。だが、脱魔術化以後の現代でもやり方はそう大差ないだろう。わからないことはブラックボックスに封じ込めて、「そういうものなのだ」と丸呑みしようとする。そうすると、魔術のなくなった今、わからないことを押し込めるブラックボックスの役割を果たしているのが、「カリスマ」という器なのではないか。

 

 いまカリスマをわからないことを閉じ込めた箱にすぎないと比喩したが、それは結局、「カリスマ」と呼ばれるものの内実がないまま、飲み込もうとする人間が見たいものを見たいように「そこに入っている」と思い込んでいるだけ、ということを意味する。自然的な現象に天罰などといった意味はないように、「カリスマ」と呼ばれる者の一挙手一投足には、本当はそのようにあがめられるだけの意味などなく、空洞に集団幻想を見ているだけなのだ。

 

 そうすると、カリスマが「追従させることのできる力を有する者」と定義されるのであれば、ここにいう「力」というのは、できるだけ多くの人に幻想を抱かせ得る素質であり、それはつまるところ「0」=空っぽ、無意味であることなのではないか。

 まず、わけのわからないものを衆人に呈示する。そこには実際上意味はないが、「わからないが、そこには深遠な意味があるのだろう」と凡人は勝手に深読みする。そして、「私には到底たどり着けない地点にこの人は到達しているのだ」とさらに勝手に崇拝しだす。それが、カリスマと呼ばれる奇術の正体なのではないだろうか。これが私の仮説である。カリスマ、恐るるに足らず、といったところか。

 

 このような思想が主題となっているのが、私の生涯のバイブル、新井英樹による『ザワールドイズマイン』である。一人のカリスマの言動に、みな神仏へのそれに近い畏敬を抱き、また人生を狂わせていくのであるが、最後の最後でそれらすべての言動に意味などなかったことが発覚する。初めて読んだとき、なんてひどいシナリオだ、と非常に驚いたことを覚えている。ひどいというのは、話としてつまらないという意味ではなく、なぜ幻想を見続けさせてくれなかったのか、救いがなさすぎる、という作者の冷酷さへの嘆きである。

 新井英樹は、ほとんどの作品で一人のカリスマにフォーカスを当てた話を書くが、結末としてもどれしもが、その化けの皮をはがされ、「こいつもお前と同じ凡人の範疇でしかない」という現実を突きつけて終わる、というものばかりだ。凡人の夢や希望を打ち砕くことに心血を注いだ作風としか思えない。偶像を引きずり下ろす、その作風が好きで私は新井英樹に「カリスマ」を見出してしまっているのは、なんとも皮肉な話ではあるが。

 

 こう考えていると、やはりすべての元凶は、意味を見出さなければ気が済まない、という理性への奴隷根性ではないのかという気さえしてくる。打倒・合理至上主義を掲げた「カリスマ」になってみようか。