FAQ

 老害という生き物が嫌いだ。

 

 老害を定義してみれば、年長者であることを笠に着て傍若無人に、あるいは周囲への感度を失った状態をよしとして居座り続ける人物であるということになるだろう。少なくとも私が嫌う老害とはこのような共通項がある。

 

 では、なぜ嫌いか。老害のどこが生理的に受け入れがたいのか。

 

 まず、年長者であるということを「無条件で敬われるべき」という資格であるかのようにふるまっている点。これが第一であり、かつ老害の最悪さの中核を成している。

 そもそも、「年上を敬え」という道徳的発想は、より長く生きているものは経験がその分豊富であり、それに裏打ちされた知識があるから、意見として妥当であることが多い(あくまで多いというだけ)、という集団生活上の教訓に近いところから生じたのであろう。

 しかし、個人の経験も多様化した現代では、長く生きているからといって有用な経験をより多く経ているとは限らなくなったし、若いからといって知識不足であると必ずしもいえない状態が生じている。そうすると、「類型的に年長者は経験豊富だからその意見を聞くべきだ」という教訓に、かつてほどの信ぴょう性はなくなる。かつても年長者を敬うべきなのは「類型的に」経験豊富だから、という点に求められてはいたが、現在では年長者のその「類型性」すら失われつつあるのだ。世間知らずな老人だっているし、その生き方は決して誤りではない。

 

 もはや「年上だから敬え」との迷信を強調することは、思考停止、楽に尊敬を得ようとしているにすぎない。年を取るだけならば誰だってできるからだ。生きてさえいれば、いずれ自分も周囲から無条件で承認、尊敬してもらえる。そう甘く考えて、願って、期待している者のたわごとでしかない。あとにも述べるが、そんな簡単に承認してもらえると思うな、という怒りにも近い感情が、老害のメンタリティへの嫌さにつながっているように思う。

 

 

 なお、「年上を敬え」という風潮には疑念があるが、かといって敬意を払わなくていいといっているわけではない。というか、敬意を払わなくていい人なんてそもそもいない。そこの意識のずれも、私が老害的発想を嫌う一因だ。

 社会的生活を送るうえで、周囲の人間を尊重することは、基本的であるがほぼ唯一の絶対的ルールであるといっていいだろう。そしてそれは敬語などといった道具ではなく、態度で示されるべきものである。相手への敬愛を言葉のレトリックに頼らずに表現することこそ「敬意」なのであって、敬語を使うか使わないかをごたごたいうのもばかばかしいと思っているが、その話は今回とは文脈がずれるので割愛する。とにかく、相手に敬意をもって接すること以上に人間関係で重要なことはないが、なぜか老害どもは年長者へのそれはワンランク高いものであるべきだと考えているようなのである。

 

 先にも述べたように、年長者の社会全体への類型的有用性という価値が崩れ去った以上、「年長者であること」というのは一個性でしかない。生まれつき天パだとか頭がいいとか筋肉質だとか、それと同列の特徴でしかない。相手への敬意は「人間であること」それ自体に対する敬意に他ならないのであるから、そんな一個性を特筆して尊敬するかどうかの判断基準にせよということ自体、時代遅れ以外の何物でもない。人間をカテゴライズして対応をその類型に沿って当てはめれば、それは確かに楽だろうが、その脳死の対応の方がよっぽど相手への尊敬を欠くように思う。人をカテゴライズしていい時代はもう終わったのだ。

 

 

 結論として、安易に承認を周囲から搾取しようとする、老害老害たらしめているそのメンタリティが心底気に食わないのである。

 承認欲求は人間の一番汚い部分であり、それと同時にもっとも切実な部分であると思うし、それを掴もうと何とかしてあがく姿こそが人間の美しさなのだと考えている。私も承認を得たいし、というか承認に向かって手を伸ばす自分であり続けたいから、常に思考や価値観を変えようと努めている。それは現在の自分を殺す行為に他ならないから、痛みを伴うが、その痛みすら人間賛歌としてとらえ(ようとし)ている。

 これに対して、年長者は敬われるべきという発想は、そのようなアップデートを怠ってもなお許される存在として自分をとらえることにつながるが、それはただ楽をして、自分ではなく承認する側の周囲に「承認せよ」と刃を突き付けて脅しているだけであって、その傲慢さによって承認せざるを得ない側が泣かされている、言ってみれば先に述べた「痛み」を他人に転嫁する態度なのである。苦労している自分からすれば「楽をするな」という一種のルサンチマンなのかも知れないが、敬意を求める者が最も他者への敬意を欠いているという自己矛盾を抱えてもなお、その罪に気づかずにのうのうと他人を搾取している、そのような存在への不快感は普遍的なものではないのだろうか。

 

 老いることは悪ではない。老いた先で、変わり続けなくてもいいとふと思ってしまった先で、思考停止を選ぶことこそが悪なのである。