やさしくなりたい

 価値観がぶれにぶれまくる私にも、一つ明確な軸が存在する。「面白いかどうか」という評価軸である。面白さにもいろいろなものがあって、人それぞれ感じ方も違うことは重々承知しているが、今日は私がどうしても理解できない面白さの話をしたい。

 

 前提として、私にとっての面白さとは、一言でいえば「新規性」に尽きるのだと考えている。

 面白いことの大抵は人が創り出しているところ、そこにその人自身の個性が現れ、それは受け手である私にとっては革新的なもの、あるいは予想できないものであるからこそ、半ば強制的に惹きつけられる。そしてなぜそのような新しいものに惹かれるのかと言えば、己の変身願望、つまりそこに自分の新たな可能性を見出すからだ。もちろん、人の手によらない、いわばナチュラルな面白さも存在するが、それもまた自己変革の可能性を見出すからこそ面白いと思うという構造自体は同じだろう。

 結局、外部の刺激で自分を変えてほしい、というのが、「面白い」と思う感情の本質なのではないか。

 

 そう考えるからこそ、私にはあまりよく面白さがわからないものがある。いわゆる「天丼」ともいうべき様式だ。

 天丼という様式美の最たる例は、やはり新喜劇だろう。毎回同じようなことが繰り返されて、毎回同じようなボケをして、しかも一回の公演内でもすでにあったやりとりの「天丼」で笑いをとることさえある。天丼in天丼の入れ子構造だ。

 天丼がみられるのは、なにもお笑いの場面に限られない。むしろ、一般人の日常会話での方が、手軽なユーモア醸成手段として頻繁に使われている。いわゆるネットスラングなんかも広く見れば天丼のユーモアであるし、もっと小規模のコミュニティでも、誰かがした面白い発言を擦り続けて面白がる、という場面はよくある。私も、そのような風潮に乗っかることがないと言ったらウソになる。

 

 ただ、時折「これ面白いか?」とふと我に返ってしまうことがある。というのも、先に述べたように面白さとは新規性に本質があるとするならば、同じ表現や展開を何度も何度も繰り返すことには何の面白みもないはずであるし、振り返ってみると実際私自身も自分が面白いと思ってやっているわけではなく、みんなが面白がるのでとりあえずやっとく、という思考停止のユーモアとして使っているように思う。こんな風に書くと、斜に構えた底意地の悪い奴だな、と自分でも嫌になるが、実際何が面白いのかよくわからない。

 何度でもいうが、面白いということは受け手の想像を裏切ることに外ならず、逆に発信者側も相手に闇討ちするがごとくの衝撃を与えることで、自分の存在感を示す、というのが「面白さ」の意義であるはずだ。ならば、誰にでもできる、誰でも予想つくことをやる意図はなんなのか。それは本当に面白いと思ってやっているのか。はっきりいってそのユーモアは「自分はモブです」と宣言しているに等しいが、わかっているのか。

 

 別に受け狙いでやっているのでないならまだいい。許しがたいのが、それを面白いと思って、受けると思ってやっている連中だ。私は「イケメン無罪」ならぬ「面白無罪」、つまりどんなに不謹慎なものでも最悪なものでも面白いならそれは正義だと考えてしまう性質だが、逆に心底つまらないと思うものの存在意義は徹底的に否定したい。それがつまらないうえに誰かを攻撃するようなものであれば、もはや殺意を抱くほどに嫌悪している。

 ある人が「みんなが言えることをあなたが言う必要はない」と言っていたが、まさにその通りだと思う。有象無象がやっているようなことを、さらにあえて擦って喜べるのは、ずいぶんとできた人間でうらやましい限りである。それをやって肯定してもらえる自分の恵まれた環境に日々感謝した方がいい。私のように底意地の悪い人間と関わらない、幸福な人生を過ごされることを願ってやまない。