甘えんな

 ポリコレという考え方が、表現の際に留意されるようになって久しい。他人の痛みに自覚的になろうとする時代の流れの一側面といえよう。ただ、このような観念が登場してもなお、言葉に対する重みづけは人によってかなり違っていて、なんならそれがSNS上などでよくみられる諍いの原因のほとんどなのではないかとさえ思われる。

 

 具体的に言えば、言葉を単なるレトリックとしてしかとらえない人と、言葉の使い方に厳密である人とは、一表現に対する捉え方があまりにも異なる。

 例えば、少し前に問題になっていた、「お母さん食堂」という表現。これは要するに、「どこかほっとするような、懐かしい味」というのを「お母さん」という言葉で表現したのであるが、これはジェンダーロールの押し付けではないのか、との声が上がり、議論を呼んだ。この表現からジェンダー的問題意識を汲み取った人は、言葉の重みを非常に強く感じていて、厳密な言葉のチョイスにこだわりたい人なのだろう。対して、そんなの難癖ではないか、と批判する声も少なくなかったが、これは「お母さん」という言葉の選択にはそれほど深い意味はない、ただのレトリックなんだからそんなに目くじら立てて取り締まる意味はないだろ、という趣旨であったと推測される。まさに、上に述べた言葉に対する重きの置き方の違いから生じた争いだ。

 

 正直に言って、これはどちらの態度が正しいということはないと思う。私はどちらかと言えば言葉の厳密なチョイスにこだわるタイプだが、言葉は結局コミュニケーションツールにすぎない以上、「言いたいこと」それ自体が相手に伝わりさえすればまあいいのでは、とも考えている。これは、自分に表現の才がなく、どんぴしゃの言葉を選択できることの方が稀であることから来た、一種の諦念に近い。なので、ただのレトリックにこだわることに何か意味はあるのか、という人たちの意見もよくわかる。

 

 ただ、現実にはそうであっても、はなからそうやってあきらめてしまっていいのか、という思いはぬぐえない。確かに、先の「お母さん」の例でいえば、「おふくろの味」という慣用句がすでに存在していることからしても、その言葉をチョイスしたコピーライターに何かジェンダー論的悪意はなかっただろう。ただ、特にジェンダーの問題は、個人の意識レベルがどうかより、社会においての風潮・構造自体の変革が抜本的解決に必要とされ、それこそポリコレ的発想が最も効果的といえるからこそ、言葉の選択には真剣に向き合わなければならなかったのではないか。そうした問題意識がありうることに思い至らなかったとしても、事後的に批判が噴出してから「単なるレトリックだから」と割り切ってしまうのは、向き合う姿勢の放棄と捉えられても仕方ない。「おふくろの味」的表現をポリコレ的によくないとするかどうかはさておいて、「そういうものとしてあるから」という一事をもってすべて片付けようとするのは危険ではないか、というのが個人的な印象だ。

 

 言葉の重みに対する価値観の違いは、至るところにある。言葉の解釈が肝心かなめの法学者ですら、言葉に厳密である人と割とざっくりしている人とがいるのであるから、どっちが正しいとかもないし、何なら言葉というものが多義的なものとして存在している以上、そのような事態は所与のものなのかもしれない。人間がテレパシーでも使えない限り、完全無欠のコレクトネスはありえないだろうから、言葉の選択にこだわりすぎることは合理的ではないが、だからといって適当に言葉を使って伝わりさえすればいい、というのでは、結局他人の痛みに無自覚な前時代の考えと何ら変われていない。どんなに内部の意識を変えれていても、それを表出させなければ変化していないのと同じだからだ。自分の遅さを許したくないのであれば、せめて言葉を慎重かつ真摯に選ぼうとする姿勢は大事にしておかなければならないのではないか。もっとも、これによって表現に対する萎縮が生じてしまうと元も子もないので、なかなか難しいところではある。この言い方は好きではないが、ここでも結局「バランス」ということに落ち着くのだろう。