救われ升

 最近読んだ本『救いとは何か』(森岡正博山折哲雄筑摩書房)がいろいろ面白い概念を提示してくれたので、備忘録的に書いておこうと思う。

 

 私はすべての悪は他者との比較に始まるものと前々から感じていたが、これについて「比較地獄」という言葉で表現されていた。これは、本来的に「一人」という言葉はポジティブな意味であったにも関わらず、戦後教育においては「横並び平等主義」が偏重された結果、水平方向でのみ自己のアイデンティティを見出す思考につながっていった、それによって嫉妬や憎悪、殺意が増幅するとともに、横並びからあぶれた者は孤独を感じ、それが「一人」である(つまり「一人」は忌み嫌われるものである)、という考え方を表した概念である。

 ここで肝となるのは、平等主義が必ずしも悪なのではなく、それが水平方向にしか存在しないことこそが諸悪の根源という点だ。平等の方向性が垂直にも存在するのであれば、水平方向では逸脱したものであっても、垂直方向で見ればみな横並び(縦並び?)であるため、安心を得ることができる。そして、この垂直方向での平等こそ、神仏を観念する意義なのである。

 「一人」という概念についても、本来的にはポジティブなものであったはず、ということが述べられていた。難しくてあまりよく理解はできなかったが、要するに、本来の「一人」は自分を取り囲む自然や脈々と受け継がれてきた血縁・思想など、今の自分の輪郭となっているものの全体をとらえたうえでの、その中にいる自分、という意味だったのだろう。それが、今や完全に環境と分断された「個」を「一人」として捉えるようになったために、「一人」という言葉の持つ救済的意味合いが薄れてしまった。

 

 この本は、宗教を「信じない」者がどのようにして救われるか、ということをいろいろな角度から議論しているのであるが、やはり究極的には「神」という明確な上位存在に代わる垂直軸を、なんとかして自らの「生」から見出せないか、という哲学上の問題について試行錯誤していたようである。そしてそれは、自らを生かす自然への意識、さらには、生を受けたことに根拠はないが必然であって、その生は環境によって見守られすでに祝福された存在である、ということに求められると結論している。話者はそれを「誕生肯定」という言葉で説明しているが、無機質なものになりがちな生命倫理に関する哲学とは違って、非常に有機的であたたかい考え方だなと感じた。

 このように救いをとらえるのであれば、それはつまるところ自分を本来の意味での「一人」の文脈でとらえなおすことがまさに救われる道となるのではなかろうか。

 

 このような「一人」という概念と生かし生かされる関係という主題は、私の敬愛する新井英樹作品に通底するものといえる。作中に宮沢賢治の引用がたびたび出てくるが、この本でも宮沢賢治がまさに話者のいう救いの実践として表現を行ってきたとして取り上げられている。『銀河鉄道の夜』の完成稿の一段階前に、宮沢賢治は「みんなのほんとうのさいわい」を探す旅に出よとのメッセージを残していたが、これはまさに、自らの幸福を「個」としての幸福と捉えず、自分が周囲に生かされている一部に過ぎない、だからこそ出会う誰しもの幸福を探していくことで、自らの幸福は初めて達成されるのだ、という、上述の有機的な「一人」概念および救済に関連するものといえよう。

 新井英樹は『ザ・ワールド・イズ・マイン』において宮沢賢治の『なめとこ山の熊』をモチーフとしている場面がある。そこでは、『なめとこ山の熊』のラストは熊によるイヨマンテを意味している、と登場人物が語っているが、まさに熊と人間とが対等に殺し殺され、それが自然の流れであって、両者にとっての救いでもある、ということを作品を通じて、宮沢賢治新井英樹も伝えているように思う。

 

 

 これは本筋と若干それる話だが、他にも面白い考えとして、「信ずる宗教」と「感ずる宗教/宗教性」という分類がある。信ずる宗教はその名の通り、ある宗教の門下に下って神仏を信じることであるが、そうではない、無神論者であっても、交通事故の跡には手を合わせるし、被爆者への慰霊碑にも黙祷をささげる、これは一体何に対して手を合わせていることになるのか、という疑問についての一つの答えが、「感ずる宗教」あるいは「宗教性」なのである。

 墓前で手を合わせるとき、それは仏や故人への祈りをささげているわけではない。故人を悼む気持ち、ひいてはその背後に連綿と存在する「死者」に対しての鎮魂の意の身体的発露として、その行為があるのではないかという。それは人が自然の脅威に直面したときには手を合わせ頭を垂れ、また自然の美しさに圧倒されたときにはそこに極楽浄土を見出すように、一種人体に刻み込まれた「宗教性」として、仏や魂の存在を信じるか否かにかかわらず感覚的に感じ取ってしまうものとして、普遍的に備わったものとされている。

 そうすると、この誰しもが共感するであろう「感ずる宗教」こそ、救済のための垂直軸として機能するものと捉えられるのではないだろうか。そしてそれに対する自覚が、先ほどの議論と結びついてくることになろう。

 

 

 前に宗教への憧れを書いたが、話者の一人である森岡氏もまさに同じことを述べていたために、共感するところの多い本であった。難しい本だったので「救い」とは何か、消化しきれていない部分もあるが、今後事あるごとに思い返すのだろう。