早口自分語り

 最近やっとわかってきた、自分の萌えについて。

 

 ざっくり言えば、私の萌え(これをいわゆる萌えという感情と捉えていいかはさておいて)は「生活」「思想」「関係性」がキーワードになると考えている。

 

 

 まず、生活。「生活」を垣間見た瞬間にむらっとする。

 例えば誰かの家にお呼ばれして、調味料入れに手書きのラベリングがしてあったのを見たとき。ベッドの横に、おそらく寝る前に読んでいたのであろう本が平積みしてあったとき。壁に家族での家事分担表が貼られていたとき。

 そういうものを見つけてしまうと、どうしようもなく愛おしさを感じる。別にその人に愛しさを感じるというわけではないので、人間の生活そのものに対しての愛としか言いようがないのだが。

 

 自分が「生活する」ということをすることも、結構好きだ(断じて「生活すること」自体が好きなわけではない)。丁寧に家事を行うとかそういうのが好きなわけではなくて、必需品のストックを買う、冷凍用の鶏肉を切り分けて袋詰めする、洗濯物を回す、そんな些細な生活上の構成要素を「自身が行っていると自覚すること」に淡い高揚感を覚える。

 

 これは、ギャップ萌えにも近いものなのかもしれない。普段見えないその人の側面を見たことによる、その人の人格解釈に奥行きが出ることへの喜び。ただ、かといってその人がいかにもしていそうな生活上の行為を目撃したときには、解釈は重層化しないから何もうれしくないかと言われると、そういうわけでもない。やってそうな行為を本当にやってた時も、同様に嬉しくなる。

 

 では一体何なのか。何に面白みを見出しているのか。結局のところ、「見ちゃいけないものを見ちゃった」という一種の罪悪感をスパイスに利かせた、人間賛歌なのではないか。

 私は人と関わることに苦手意識もあるし、人間は最悪で災厄という意識は常にあるが、実際のところ人間が好きで好きでしかたないのだと思う。人間と触れたい、知りたい、教えてくれ、仲間に入れてくれ。そういう深層心理での切なる願いが、心を動かしているのではないだろうか。

 ただ、他人の生活というのは、プライバシー的にも距離感的にもあまり踏み込むことは是とされない。本来的には、その人の生活を構成する要素は、内内にとどめられているべきなのだ。でも、それを外野の私が見つけてしまったとき、「見せてもらっていいんですか!?」の気持ちとともに、それを見せてもらえる関係性にあることが、自らを承認してくれているようで、無性に嬉しくなってしまう。これらの情緒の複合体が、生活に対する萌えなのではないかと考えている。

 

 

 人の思想に対する萌えも、これに近いだろう。思想というのも、本来内内にとどめられているもので、人にさらされることは(それを生業とする人を除いては)ほとんどない。その人の思想や哲学、美学といったものは、まさにその人の人格のコアなのであるから、他者と関わるうえでこれを公にすることは重大な意義があると私は思うのだが、一般にはそれは恥ずかしいものだ、あるいはうざったいものだ、と捉えられているようで、多少残念ではある。

 他方で、思想がその人自身の閉ざされた世界で完結されるものであるからこそ、それをとあるきっかけで見聞きできてしまうと、その閉ざされた世界に自分も取り込まれているようで、またその人がどういう人間なのか、人間の人間たるゆえんに触れることができて、嬉しくなるのだと思う。

 

 もっとも、思想が好き、というのは、何も私個人の特性というわけではなく、誰しもが共通して持っている性癖(?)なのではないか。つまり、社会的動物である人間は、どうしたって他人とかかわりあわなければ生きていけない。「寂しい」という感情が備え付けられているのも、そもそも種として集団で生きることに特化していることの表れといえよう。そうすると、必然的に他者とのわかりあいが不可欠となる。わからないものは怖いし、自分が傷つけられるリスクもあるからだ。

 わかりあうために最も重要なのは、他者への想像力の解像度を上げることだ。見える部分からAを解釈して、「自分から見えるA」像を一応のものとして築き上げ、それをもとにAと関係していく。A本人がどう感じるか、どう考えるかは私からはどう頑張ってもわからないので、代わりに「A」像はどう感じるはずか、という解釈から推測することになるのである。その際、A自身から自らの思想を聞ければ、「A」像を作り上げるうえでこれ以上のヒントとなるものはない。「A」像が粘土で作られる胸像だとするなら、Aの思想は軸となる針金に匹敵する。

 となると、人間は生きるためにわかりあいを本能的に必要としている以上、他人の思想を知りたいという欲求もまた本能に根差すものではないだろうか、というのが私の仮説だ。とはいえ、実際上は思想を話したがる人はそれほど多くないという現状のもとで、説明がつくのかは疑問の残るところではあるが…。

 

 

 最後の関係性については、以上の2つとは若干系統が異なるかもしれない。

 生活や思想が人の内部に本来閉ざされていて見えないものであり、それが見えたときに興奮する、といった萌えに根差すのに対し、関係性は別段内部に閉ざされているというものではない。むしろ、外部とのつながりそれ自体を意味するのであるから、本来的に外部性をもったものである。

 

 ただ、「関係性」というとき、それは完全なる客観的視点から見たそれを意味している。漫画でいう読者、映画でいう観客、そこから見た登場人物らの関わり合いの様子を「関係性」と呼ぶ。しかし、私たちはそうした視点をフィクション以外で持つことができるだろうか? 答えは否である。AとBがつるんでいるのは知っていても、友愛、恋慕、畏怖、嫉妬、無関心、互いが互いに抱く感情を第三者である私が知る由はない。あくまで自分はその2人と同じ次元に位置しながら、横から2人を眺めている者にすぎない。

 そうすると、AとBがどういう関係性にあるのか、というのは、現実にはまさしくその2人しか知り得ないのである。あるいは、その2人すら知り得ないものでもある。こう解すると、「関係性」もまさしく閉ざされた概念として観念されることになるのである。

 

 閉ざされた概念であるはずの関係性に触れたときの高揚というのは、上述の思想や生活に触れたときのそれと同じく説明ができよう。結局、タブーに触れることへの興奮と、人間の人間らしさに触れることによる人間賛歌的感情がないまぜになって、わけのわからないことになっている。

 

 ここで、「関係性に触れる」とは何ぞやということにも触れておかねばならない。完全に閉ざされた概念であり、かつ当事者となっている者にすら把握が困難なものを、どうやって第三者が触れるのか。

 これは、人の思想に触れるのとおおよそは一致する。つまり、AからみたB像、BからみたA像(これらはその人における他者の解釈論という思想に近い)を聞いて、そこからさらに第三者としての解釈を加えて、関係性としての一つの結論を推測するのである。これらは、ABないし自身の主観が入る点で、神の視点による純客観の「関係性」ということはできないものの、当人たるABからの情報提供がある点で、それに近しいものにはなっているといえよう。

 

 

 以上、長々となぜ私が萌えるものに萌えるのかを頑張って分析してみた。関係性については正直よくわからないので、説明になっていないかもしれない。また後々わかってきたら、別途ここに書きたい。

 結局のところ、私は人間が好きで、基本的に萌えや趣味の傾向は人間の内部に触れられるもの、その人に対する解釈を深めてくれるものあるいは解釈のきっかけをくれるもの、というところなのだろう。「趣味は人間観察です」とかいう寒い自己紹介も、あながち嘘ではないのかもしれない。嫌…