診断

 何かを知っているということは、いつから正義とされてきたのだろう。

 

 今の時代、知っているということは力だ。知る者が知らない者を搾取していく。知らない者は知る者になろうと努力するし、知る者もさらに知ろうと手を伸ばす。

 

 だが、何かを知ったとき、もう「知らない」状態の自分には戻れない。知とは不可逆的に自分を変えることに他ならない。これはずいぶんと恐ろしいことではないのか?

 

 確かに、知ることによって自分が良い方向に変わることはあろう。知ることでさらに世界が広がる、世界の解像度が上がる、だからより多くのことを知っておくべきだ。そういった言説は、いまや一般常識、さらには社会的規範としても存在している。義務教育などというのはまさにその具現化に等しい。

 

 ただ、そもそも「世界の解像度を上げる」という作業自体、本当に幸福をもたらすのか、という疑問は無視できない。それは、幸福という概念がどこまでも主観的なものとしてしか存在しえないことに根源がある。

 

 例えば、精神病は必ずしも治すことが正解とは限らない、という問題。精神病による幻覚などで苦しんでいるのであれば、それを治すことは幸福につながるだろう。しかし、その幻覚の中で幸せに生きている人を、その幻覚が病だからといって他人が勝手に辛く苦しい現実にその人を引き戻すことは、果たしてその人のためなのか?

 

 同じような理由で、私はかねてから新興宗教が悪として捉えられることにも違和感を覚える。ヌギョマボジヌッボ様を信じることで、暗闇のなか手探りで歩むような人生に光がもたらされるのであれば、それ以上幸福なことはないのではないのか。「目を覚ませ」とその人に告げることは簡単だが、あなたはその人の目を覚ますことがその人にとっての幸福であるという確証があるのか。

 

 私は信心深い人が心底うらやましい。皮肉なんかではなく、可能ならば私もキリストでもアッラーでもヌギョマボジヌッボ様でもなんでもいいから、人生に意味をもたらす存在が欲しかった。助けてほしかった。

 

 だが、どこまでも私は正気で、どこまでも私は目を見開いてしまっている。宗教にすがりたいという欲求も、思考停止を許されたいという傲慢にすぎない、といってしまえばそうなのだが、世界に神などいないと「知る」ことが、私一個人の幸福にとってどれほどマイナスであったことか。

 

 客観的にその人の置かれた状況がどうかというのは、その人の幸福にとって何の意味もない。メリーバッドエンドという胸糞映画鉄板の概念があるが、外野が「そこは地獄だ」とおせっかいにも口を出すこと自体おこがましい。当人たちが知らないまま幸せに生きていけるなら、それ以上の幸福など観念しえないのだ。お前がその地獄に向ける嫌悪と、新興宗教の勧誘とは、何も本質的に差はない。お前も「現実」という宗教の勧誘者にすぎないことを自覚しろ、目を覚ませ。

 

 ほとんど恨みつらみを書き散らしただけになったが、つまるところ、「知る」という行為をもっと恐ろしく思うべきではないのか、というのが今日の気づきだ。思考は常に可変的であるが、唯一知らなかったときの思考に戻ることはできない。知った先が地獄であろうと、だ。知は力だが、同時に、地獄への第一歩でもある。

 

 

 ・・・あなたの病名は、頭でっかちです。