好き好き大好き
現実から解放されて夢想にふけること。それ以上の娯楽はこの世にない。少なくとも私個人については、この点は断言できる。
ただ、その前提として、これが娯楽として成立するためには、現実からの抑圧という状況が存在していなければならない。夢想の快楽の本質は「解放」にあり、夢想することそれ自体にはとりたてて特別な愉悦は存在しないからである。
すなわち、夢想とは肉体的・有形的「自分」が直面している事実状態、あるいは肉体的存在そのものを無視することによって、精神的・無形的「自分」のみの世界で生きることを意味する。そうすると、肉体から切り離された精神世界の自分は(自我の確立過程において外部的影響は否定しえないものの)肉体的自分の感知する外部的刺激による傷を負い得ず、常に「凪」の状態を維持することができる。「安全圏内」の維持といってもいいかもしれない。夢想に快楽が伴うのは、まさにこの「安全な状態に自らを確保すること」という一種防衛本能に近い目標の達成により、あるいはその状態を目指させるための機能として認められるのである。
逆に言えば、すでに凪の状態を肉体的自分も獲得している場合には、いくら夢想による肉体からの解放があったとしても、すでに目標の達成はある(そしてその先の目標はない)から、夢想によって何らかの快感を得ることは機能上ありえない。性器への刺激が繁殖目的になされるのでなくとも快感を伴うこととは違って、夢想に「オナニー」的快感はありえないのではないだろうか。
そうなると、夢想が好きな人間は、その快感を味わうために現実の自分を徹底的に追い詰め続けなければならないことになる。夢想が防衛のために存在するにもかかわらず、それをしたいがゆえに、いやだいやだと絶叫しながら自ら脅威に身をさらすのだ。結果、傷つくことを最も恐れる人間は、その防衛手段として夢想を発達させすぎるあまり、自傷に走る、という皮肉な現象が観測される。はっきり言って、馬鹿である。
ところで、私自身はというと、悲しいことにその馬鹿の一人なのであろう。つまり、追い詰められたときにする自分の思考が楽しすぎるがゆえに、追い詰められる方向に自分をもっていく傾向にあるように思う。ただ、困ったことに、追い詰められているときにはそれを表現するだけの気力がないのに対し、解放され「凪」にあるときには、ありあまる気力に相当するだけの夢想の快感がそこには存在しない。ゆえにここには何も書くことがなくなってしまうのである。
*最近よかったこと
恋人が『冷たい熱帯魚』を好きな映画として挙げていたこと