ごめん

 だめになっちゃいました


 無で走ってないとすぐに引きずり込まれる

 安息が苦痛を産む矛盾


 みんなこうなのかな 私だけおかしいのかな

 これは単なる怠惰なのかな


 人の形を保てない 黒く暗く深く


 溶けて消えて腐って朽ちて

 早く死ねたらいいね


 変性意識状態 精神のダイブ

 縋ろうにもそれすらできないいまのわたしは


 弱さも肯定できる強さ

 弱さを人にさらけ出せる豊かさ

 助けてなんて言えないよ 今日の日はさようなら



やさしくなりたい

 価値観がぶれにぶれまくる私にも、一つ明確な軸が存在する。「面白いかどうか」という評価軸である。面白さにもいろいろなものがあって、人それぞれ感じ方も違うことは重々承知しているが、今日は私がどうしても理解できない面白さの話をしたい。

 

 前提として、私にとっての面白さとは、一言でいえば「新規性」に尽きるのだと考えている。

 面白いことの大抵は人が創り出しているところ、そこにその人自身の個性が現れ、それは受け手である私にとっては革新的なもの、あるいは予想できないものであるからこそ、半ば強制的に惹きつけられる。そしてなぜそのような新しいものに惹かれるのかと言えば、己の変身願望、つまりそこに自分の新たな可能性を見出すからだ。もちろん、人の手によらない、いわばナチュラルな面白さも存在するが、それもまた自己変革の可能性を見出すからこそ面白いと思うという構造自体は同じだろう。

 結局、外部の刺激で自分を変えてほしい、というのが、「面白い」と思う感情の本質なのではないか。

 

 そう考えるからこそ、私にはあまりよく面白さがわからないものがある。いわゆる「天丼」ともいうべき様式だ。

 天丼という様式美の最たる例は、やはり新喜劇だろう。毎回同じようなことが繰り返されて、毎回同じようなボケをして、しかも一回の公演内でもすでにあったやりとりの「天丼」で笑いをとることさえある。天丼in天丼の入れ子構造だ。

 天丼がみられるのは、なにもお笑いの場面に限られない。むしろ、一般人の日常会話での方が、手軽なユーモア醸成手段として頻繁に使われている。いわゆるネットスラングなんかも広く見れば天丼のユーモアであるし、もっと小規模のコミュニティでも、誰かがした面白い発言を擦り続けて面白がる、という場面はよくある。私も、そのような風潮に乗っかることがないと言ったらウソになる。

 

 ただ、時折「これ面白いか?」とふと我に返ってしまうことがある。というのも、先に述べたように面白さとは新規性に本質があるとするならば、同じ表現や展開を何度も何度も繰り返すことには何の面白みもないはずであるし、振り返ってみると実際私自身も自分が面白いと思ってやっているわけではなく、みんなが面白がるのでとりあえずやっとく、という思考停止のユーモアとして使っているように思う。こんな風に書くと、斜に構えた底意地の悪い奴だな、と自分でも嫌になるが、実際何が面白いのかよくわからない。

 何度でもいうが、面白いということは受け手の想像を裏切ることに外ならず、逆に発信者側も相手に闇討ちするがごとくの衝撃を与えることで、自分の存在感を示す、というのが「面白さ」の意義であるはずだ。ならば、誰にでもできる、誰でも予想つくことをやる意図はなんなのか。それは本当に面白いと思ってやっているのか。はっきりいってそのユーモアは「自分はモブです」と宣言しているに等しいが、わかっているのか。

 

 別に受け狙いでやっているのでないならまだいい。許しがたいのが、それを面白いと思って、受けると思ってやっている連中だ。私は「イケメン無罪」ならぬ「面白無罪」、つまりどんなに不謹慎なものでも最悪なものでも面白いならそれは正義だと考えてしまう性質だが、逆に心底つまらないと思うものの存在意義は徹底的に否定したい。それがつまらないうえに誰かを攻撃するようなものであれば、もはや殺意を抱くほどに嫌悪している。

 ある人が「みんなが言えることをあなたが言う必要はない」と言っていたが、まさにその通りだと思う。有象無象がやっているようなことを、さらにあえて擦って喜べるのは、ずいぶんとできた人間でうらやましい限りである。それをやって肯定してもらえる自分の恵まれた環境に日々感謝した方がいい。私のように底意地の悪い人間と関わらない、幸福な人生を過ごされることを願ってやまない。

 

 

甘えんな

 ポリコレという考え方が、表現の際に留意されるようになって久しい。他人の痛みに自覚的になろうとする時代の流れの一側面といえよう。ただ、このような観念が登場してもなお、言葉に対する重みづけは人によってかなり違っていて、なんならそれがSNS上などでよくみられる諍いの原因のほとんどなのではないかとさえ思われる。

 

 具体的に言えば、言葉を単なるレトリックとしてしかとらえない人と、言葉の使い方に厳密である人とは、一表現に対する捉え方があまりにも異なる。

 例えば、少し前に問題になっていた、「お母さん食堂」という表現。これは要するに、「どこかほっとするような、懐かしい味」というのを「お母さん」という言葉で表現したのであるが、これはジェンダーロールの押し付けではないのか、との声が上がり、議論を呼んだ。この表現からジェンダー的問題意識を汲み取った人は、言葉の重みを非常に強く感じていて、厳密な言葉のチョイスにこだわりたい人なのだろう。対して、そんなの難癖ではないか、と批判する声も少なくなかったが、これは「お母さん」という言葉の選択にはそれほど深い意味はない、ただのレトリックなんだからそんなに目くじら立てて取り締まる意味はないだろ、という趣旨であったと推測される。まさに、上に述べた言葉に対する重きの置き方の違いから生じた争いだ。

 

 正直に言って、これはどちらの態度が正しいということはないと思う。私はどちらかと言えば言葉の厳密なチョイスにこだわるタイプだが、言葉は結局コミュニケーションツールにすぎない以上、「言いたいこと」それ自体が相手に伝わりさえすればまあいいのでは、とも考えている。これは、自分に表現の才がなく、どんぴしゃの言葉を選択できることの方が稀であることから来た、一種の諦念に近い。なので、ただのレトリックにこだわることに何か意味はあるのか、という人たちの意見もよくわかる。

 

 ただ、現実にはそうであっても、はなからそうやってあきらめてしまっていいのか、という思いはぬぐえない。確かに、先の「お母さん」の例でいえば、「おふくろの味」という慣用句がすでに存在していることからしても、その言葉をチョイスしたコピーライターに何かジェンダー論的悪意はなかっただろう。ただ、特にジェンダーの問題は、個人の意識レベルがどうかより、社会においての風潮・構造自体の変革が抜本的解決に必要とされ、それこそポリコレ的発想が最も効果的といえるからこそ、言葉の選択には真剣に向き合わなければならなかったのではないか。そうした問題意識がありうることに思い至らなかったとしても、事後的に批判が噴出してから「単なるレトリックだから」と割り切ってしまうのは、向き合う姿勢の放棄と捉えられても仕方ない。「おふくろの味」的表現をポリコレ的によくないとするかどうかはさておいて、「そういうものとしてあるから」という一事をもってすべて片付けようとするのは危険ではないか、というのが個人的な印象だ。

 

 言葉の重みに対する価値観の違いは、至るところにある。言葉の解釈が肝心かなめの法学者ですら、言葉に厳密である人と割とざっくりしている人とがいるのであるから、どっちが正しいとかもないし、何なら言葉というものが多義的なものとして存在している以上、そのような事態は所与のものなのかもしれない。人間がテレパシーでも使えない限り、完全無欠のコレクトネスはありえないだろうから、言葉の選択にこだわりすぎることは合理的ではないが、だからといって適当に言葉を使って伝わりさえすればいい、というのでは、結局他人の痛みに無自覚な前時代の考えと何ら変われていない。どんなに内部の意識を変えれていても、それを表出させなければ変化していないのと同じだからだ。自分の遅さを許したくないのであれば、せめて言葉を慎重かつ真摯に選ぼうとする姿勢は大事にしておかなければならないのではないか。もっとも、これによって表現に対する萎縮が生じてしまうと元も子もないので、なかなか難しいところではある。この言い方は好きではないが、ここでも結局「バランス」ということに落ち着くのだろう。

 

 

 

救われ升

 最近読んだ本『救いとは何か』(森岡正博山折哲雄筑摩書房)がいろいろ面白い概念を提示してくれたので、備忘録的に書いておこうと思う。

 

 私はすべての悪は他者との比較に始まるものと前々から感じていたが、これについて「比較地獄」という言葉で表現されていた。これは、本来的に「一人」という言葉はポジティブな意味であったにも関わらず、戦後教育においては「横並び平等主義」が偏重された結果、水平方向でのみ自己のアイデンティティを見出す思考につながっていった、それによって嫉妬や憎悪、殺意が増幅するとともに、横並びからあぶれた者は孤独を感じ、それが「一人」である(つまり「一人」は忌み嫌われるものである)、という考え方を表した概念である。

 ここで肝となるのは、平等主義が必ずしも悪なのではなく、それが水平方向にしか存在しないことこそが諸悪の根源という点だ。平等の方向性が垂直にも存在するのであれば、水平方向では逸脱したものであっても、垂直方向で見ればみな横並び(縦並び?)であるため、安心を得ることができる。そして、この垂直方向での平等こそ、神仏を観念する意義なのである。

 「一人」という概念についても、本来的にはポジティブなものであったはず、ということが述べられていた。難しくてあまりよく理解はできなかったが、要するに、本来の「一人」は自分を取り囲む自然や脈々と受け継がれてきた血縁・思想など、今の自分の輪郭となっているものの全体をとらえたうえでの、その中にいる自分、という意味だったのだろう。それが、今や完全に環境と分断された「個」を「一人」として捉えるようになったために、「一人」という言葉の持つ救済的意味合いが薄れてしまった。

 

 この本は、宗教を「信じない」者がどのようにして救われるか、ということをいろいろな角度から議論しているのであるが、やはり究極的には「神」という明確な上位存在に代わる垂直軸を、なんとかして自らの「生」から見出せないか、という哲学上の問題について試行錯誤していたようである。そしてそれは、自らを生かす自然への意識、さらには、生を受けたことに根拠はないが必然であって、その生は環境によって見守られすでに祝福された存在である、ということに求められると結論している。話者はそれを「誕生肯定」という言葉で説明しているが、無機質なものになりがちな生命倫理に関する哲学とは違って、非常に有機的であたたかい考え方だなと感じた。

 このように救いをとらえるのであれば、それはつまるところ自分を本来の意味での「一人」の文脈でとらえなおすことがまさに救われる道となるのではなかろうか。

 

 このような「一人」という概念と生かし生かされる関係という主題は、私の敬愛する新井英樹作品に通底するものといえる。作中に宮沢賢治の引用がたびたび出てくるが、この本でも宮沢賢治がまさに話者のいう救いの実践として表現を行ってきたとして取り上げられている。『銀河鉄道の夜』の完成稿の一段階前に、宮沢賢治は「みんなのほんとうのさいわい」を探す旅に出よとのメッセージを残していたが、これはまさに、自らの幸福を「個」としての幸福と捉えず、自分が周囲に生かされている一部に過ぎない、だからこそ出会う誰しもの幸福を探していくことで、自らの幸福は初めて達成されるのだ、という、上述の有機的な「一人」概念および救済に関連するものといえよう。

 新井英樹は『ザ・ワールド・イズ・マイン』において宮沢賢治の『なめとこ山の熊』をモチーフとしている場面がある。そこでは、『なめとこ山の熊』のラストは熊によるイヨマンテを意味している、と登場人物が語っているが、まさに熊と人間とが対等に殺し殺され、それが自然の流れであって、両者にとっての救いでもある、ということを作品を通じて、宮沢賢治新井英樹も伝えているように思う。

 

 

 これは本筋と若干それる話だが、他にも面白い考えとして、「信ずる宗教」と「感ずる宗教/宗教性」という分類がある。信ずる宗教はその名の通り、ある宗教の門下に下って神仏を信じることであるが、そうではない、無神論者であっても、交通事故の跡には手を合わせるし、被爆者への慰霊碑にも黙祷をささげる、これは一体何に対して手を合わせていることになるのか、という疑問についての一つの答えが、「感ずる宗教」あるいは「宗教性」なのである。

 墓前で手を合わせるとき、それは仏や故人への祈りをささげているわけではない。故人を悼む気持ち、ひいてはその背後に連綿と存在する「死者」に対しての鎮魂の意の身体的発露として、その行為があるのではないかという。それは人が自然の脅威に直面したときには手を合わせ頭を垂れ、また自然の美しさに圧倒されたときにはそこに極楽浄土を見出すように、一種人体に刻み込まれた「宗教性」として、仏や魂の存在を信じるか否かにかかわらず感覚的に感じ取ってしまうものとして、普遍的に備わったものとされている。

 そうすると、この誰しもが共感するであろう「感ずる宗教」こそ、救済のための垂直軸として機能するものと捉えられるのではないだろうか。そしてそれに対する自覚が、先ほどの議論と結びついてくることになろう。

 

 

 前に宗教への憧れを書いたが、話者の一人である森岡氏もまさに同じことを述べていたために、共感するところの多い本であった。難しい本だったので「救い」とは何か、消化しきれていない部分もあるが、今後事あるごとに思い返すのだろう。

好き好き大好き

 現実から解放されて夢想にふけること。それ以上の娯楽はこの世にない。少なくとも私個人については、この点は断言できる。

 

 ただ、その前提として、これが娯楽として成立するためには、現実からの抑圧という状況が存在していなければならない。夢想の快楽の本質は「解放」にあり、夢想することそれ自体にはとりたてて特別な愉悦は存在しないからである。

 すなわち、夢想とは肉体的・有形的「自分」が直面している事実状態、あるいは肉体的存在そのものを無視することによって、精神的・無形的「自分」のみの世界で生きることを意味する。そうすると、肉体から切り離された精神世界の自分は(自我の確立過程において外部的影響は否定しえないものの)肉体的自分の感知する外部的刺激による傷を負い得ず、常に「凪」の状態を維持することができる。「安全圏内」の維持といってもいいかもしれない。夢想に快楽が伴うのは、まさにこの「安全な状態に自らを確保すること」という一種防衛本能に近い目標の達成により、あるいはその状態を目指させるための機能として認められるのである。

 逆に言えば、すでに凪の状態を肉体的自分も獲得している場合には、いくら夢想による肉体からの解放があったとしても、すでに目標の達成はある(そしてその先の目標はない)から、夢想によって何らかの快感を得ることは機能上ありえない。性器への刺激が繁殖目的になされるのでなくとも快感を伴うこととは違って、夢想に「オナニー」的快感はありえないのではないだろうか。

 

 そうなると、夢想が好きな人間は、その快感を味わうために現実の自分を徹底的に追い詰め続けなければならないことになる。夢想が防衛のために存在するにもかかわらず、それをしたいがゆえに、いやだいやだと絶叫しながら自ら脅威に身をさらすのだ。結果、傷つくことを最も恐れる人間は、その防衛手段として夢想を発達させすぎるあまり、自傷に走る、という皮肉な現象が観測される。はっきり言って、馬鹿である。

 

 ところで、私自身はというと、悲しいことにその馬鹿の一人なのであろう。つまり、追い詰められたときにする自分の思考が楽しすぎるがゆえに、追い詰められる方向に自分をもっていく傾向にあるように思う。ただ、困ったことに、追い詰められているときにはそれを表現するだけの気力がないのに対し、解放され「凪」にあるときには、ありあまる気力に相当するだけの夢想の快感がそこには存在しない。ゆえにここには何も書くことがなくなってしまうのである。

 

 

 

*最近よかったこと

 恋人が『冷たい熱帯魚』を好きな映画として挙げていたこと

TSUNAMI

 いつからか、人の目を見て話すということが極端に苦手になっていた。

 

 記憶をさかのぼると、小学校のときは全くそんなことはなく、中学高校に上がってから急にできなくなったように思う。

 

 理由はかなりはっきりしている。自分の容姿に対するコンプレックスだ。

 中高のうちは、周囲では外見至上主義的な考えが席巻していた。誰がかわいい、かっこいい、あいつはブスだ、そんな声は割とあからさまに聞こえてきた(ような気がする)。

 自我の揺らぎの真っただ中にある思春期にそのような環境にいれば、自分の容姿を気にし始めるのも当然だ。確固たる自分が未形成である以上、自分というものをどうしても外部から掴もうとしてしまうからだ。しかも、自分は見てくれが悪いと評価されていることを、周囲の扱いから何となく察してしまった。

 そこから、自分が人に見られていることへの意識と、自分の外見を評価されている、ということへの恐怖心、屈辱感がパブロフの犬のごとくセットになってしまい、目を見るのが怖くなってしまったように思う。

 

 ただ、今ではそれほど外見への執着がなくなってきているので、あまり外見をジャッジされることへの恐怖心はない。むしろ、現在でもその症状が続いているのは、自分の内面のジャッジへの恐怖に根源がある。

 

 私は、自分でいうのもなんだが、正解のふりをするのがうまい。小手先でずっと生きてきた。親の前だろうと友達の前だろうと、ずっと喜劇の仮面をつけていた。よくある防衛手段だろう。もっとも、このパントマイムをずっと続けるとどうなるかというと、他人に見せている「私」の空虚さに気づかれないか、常に不安が付きまとうことになる。

 いつか、お前はしょうもない奴だな、と評価されるのが、怖くて仕方なくなる。こんなことならいっそしょうもない自分をさらしてしまえば楽になれるのだろうが、長い間つけていた仮面は接着されてもう取れないし、私は私がしょうもない存在であることを絶対に認めたくない。私は「自分がこの世で一番面白い」と思うことにしかアイデンティティがないので、それを否定されてしまうと、とち狂うか死ぬかしか選択肢がないからだ。

 そうなると、生きるためには自分を見抜かれないようにしなければならない。嘘をつきとおさなければならない。他者の目というのは、「見抜く」「見破る」という言葉の通り、化けの皮を剥がしてくるまさに「敵」であるから、私は生涯これと闘わなければならないのである。

 

 自意識が巨大すぎる人間は、ずっと他人の目を恐れて生きていかなければならない。かといって、誰とも関わらないのも嫌。「僕の部屋は僕を守るけど、僕を一人ぼっちにもするよね」その通り。他人の目を恐れながらも、痛みを感じながらも、誰かと関わらなければ生きていけない。

 あるいは、他人の評価なんか気にせず、自分が自分を信じてさえいればいいじゃないかとかのたまう輩もいるが、そんなことは本物にしかできない。どこまでも偽物で、凡人だからこんな悩みを抱えているのに。こんな悩みを抱えること自体、もうすでに「解脱」が不可能であることの証明に他ならないのだ。

 

 まあ、人からの評価が怖いなんていうのはみんなそうなんだろうとは思うが(そうであってほしい)、絶対の存在になれない私にとって少しでも楽になるには、歯を食いしばりながら他人の目をちゃんと見つめて、何食わぬ顔で嘘をつきとおせるような胆力をつけるしかない。自意識が気持ち悪すぎる点を除けば、それでしのげるだろう。ざまあみろ!

 

 逆に言えば、評価軸の存在しない関係の下では、目を見て話すことに全く苦痛を感じない。いまのところ恋人しかその関係にないが。どういう人生だったのか、それだけでばれてしまうところはある。ざまあみろ!

 

 

酸素

 椎名林檎になりたかった。

 

 

 不穏な悲鳴を愛さないで。未来など見ないで。確信できる現在だけ重ねて。あたしの名前をちゃんと呼んで。体を触って。必要なのはこれだけ、認めて。

 (罪と罰

 

 あたしは君のメロディやその哲学や言葉すべてを守るためなら、少しくらいする苦労も厭わないんです。

(幸福論)

 

 あたしがこのまま海に沈んでも何一つ、汚されることはありません。それすら知りながらあなたの相槌だけ望んでいる、あたしは病気なんでしょう。

(依存症)

 

 

  私にも、切実さをこんなにきれいに表現できるだけの力があったらよかったのにな。という夢を見ました。夢の中で息継ぎをしている。